「気が利く人」・「よく気がつく人」と言っても、その印象はいろいろ。
ウザい💢!!なのか、
ありがたい😭なのか、、、
あざとい😑!!なのか
さり気ない✨なのか、、、
イメージはそれぞれ。
いったいその違いはなんでしょう??
そんな気遣いの違いのお話です。
- 気が利く?周りを疲れさせるあの人
- 気が利く人ってどんな人?
- 気遣いと心遣いの違い
- 本当の気遣いは「気を使わせない配慮」がある
- 人はそれぞれ違う世界を観ている
- 外側の言動を見ている人の世界
- 内側の形ないものをみる私の世界
- 結論
気が利く?周りを疲れさせるあの人
よく気が利く風の人に、疲れるなぁ、、、って思うことありません?
みんなで楽しんでるときに、ひとりでいそいそ片付け始める、、、。最後にみんなで片付ければいいのに、、、みんな気になってゆっくり楽しめない!
「出前にしよう」ってみんな言ってるのに、『私が買い出し行くからいいよ!』と遠くの店に買い出しに行こうとする、、、。
え?え?え???
私がやりたいだけやから、みんなは気にせず楽しんでて〜って😑
いやいや、、、気になるわ。
逆に気をつかうってば!
その出しゃばりもアピールもはっきり言って迷惑ですから!!
気が利く人ってどんな人?
気が利くという言葉を辞書で引いてみると【物事をするのに、細かなところまでよく気がつく、心が行きとどく、気転がきく。】と書かれていました。
アバウトですよね〜(^_^;)
細かなところまでよく気がつくって言ったって、気遣いが素敵だなぁっ♡て周りに感謝される人も居れば、、、
気が利くアピールがうざい!
でしゃばりで苦手!
おせっかいが迷惑!
こっちも気を遣って疲れる!
、、、って嫌われたり敬遠される人もいる。
よく気がつく、、、ってだけじゃ、ありがたいのかありがた迷惑なのか区別はできないよね。
気が利くって、痒いところに手が届くっていうかさ、良いタイミングで求めてるものを提供できることじゃ無かったの??
あの人みたいに周りを疲れさせる「気が利く」なら要らないよな〜🤔??
もしかして、気と心の差??
気をつかうより心をつかえ!
なんて言葉も聞いたことあるけど、、、。
調べてみると、相手に喜ばれる『気が利く』って、気遣いじゃなくて心遣いだと書かれているものもあった。
そんな気もするけど、、、本当にそうなの?
そこで気遣い・心遣いの違いはなに?を辞書で調べてみた。
気遣いと心遣いの違い
実は、、、気遣い・心遣い・配慮それぞれの言葉の意味を辞書でひいてみても、類義語としてつながっていて、意味に大きな違いは無かったんです!
気遣いと辞書をひけば【あれこれと気を遣うこと。心遣い】となるし、、、
心遣いと辞書をひけば【相手のことを思いあれこれと気を配ること。心配り。配慮。】となる。
配慮と辞書をひけば【心を配ること。心遣い】となる。
心遣いでは相手のことを思ってというニュアンスが強い?
だけど、気遣いの説明が【=心遣い】となるんだからその基準は曖昧だよな、、、?
つまり、言葉の意味はみんな同じ?!エンドレスループ状態、、、
気遣いも心遣いも同じだったら、喜ばれる気の利く人と嫌われる気の利く人の違いはなんだろう??
その違いは、どうやら言動よりも目的にありそうだ!
本当の気遣いは「気を使わせない配慮」がある
同じ気遣いも、目的が違うとまったく別のものになってしまう。
自分の評価のための行動
つまり、利己目的なら
自分のやりたいことを勝手に押しつけるだけの自己満足だよね。
例えば、、、
よくドラマで見かける、飲み会でせっせと小皿にわけたり、飲み物を頼んだり、周りの世話をやく人。
それって、よく気がつくというより『私は気が利く人です!アピール』に見えて、逆にうざい。しかも、周りもめっちゃ気をつかう!!
それはきっと、評価されたいって計算でやってる行動だってことが、見え透いてるからなのね。
つまり、相手が何を求めてるかは関係無い利己的な行動だからうざかったんだ。
相手への思いやりからの行動
つまり利他目的なら
相手が望んでいること喜ぶことだからこそ気が利く気遣いになる
私がナイス♪ って思う、本当に気が利く気遣いをしてくれる人ってこんな人。
例えば、、、お酒が入って退屈な長話を聞かされてるときに、さりげなく横から話題を変えて助け舟をだしてくれるような人。
めっちゃありがたい✨
(*´ー`*)気が利くわ〜
それはもう、ほんとにさり気なく、話題変えられた上司とか周りの人は気がついてないくらい絶妙なやつ!!
困ってる人の気持ちとか状況を察して、さり気なくサポートしたり、相手に必要な手助けをしてくれる隠れた思いやり。
相手への優しさとか配慮からくる利他的な行動だから。
だからありがたい✨
本当の気遣いは、相手への優しさと思いやり。
相手の立場にたって、相手の望むこととか、相手の手助けになるサポートをすること。
評価されようとか感謝されようなんて見え透いた下心がないからこそ、「相手に気をつかわせない配慮」
があるんだな。
人はそれぞれ違う世界を観ている
単純な私の思考では、『それって、誰から見てもわかるし周りの評価は雲泥の差でしょ?』って思ったんだけど、どうも周囲の評価はそう単純にはっきり分かれるものではないみたい、、、
なんでだろう??
どうやら、目に見える気遣いを認識する人と、見えないところでする気遣いを認識する人とは、別々の世界が見えているようなのです。
じつは最近まで、それぞれ人が思い描いている気遣いのできる人、気が利く人は全然違うということに気がついていませんでした。
私が『素敵な気遣いのできる人』と感じるその人が、別の人にとっては『気の利かない、はっきりしない、ボーッとした人』に見えているようだったのです。
正確にいえば、身近な人が言う “あの人は気が利くね” に全く共感できない私は、自分の感覚が常識からズレているのかもしれない、、、と不安になることすらありました。
けれど、あるトラブル経験から、気づいたことがあってやっと納得できました。
今までの20年ほど細々とお付き合いのあった友人Mさん。
物理的に近くなった(毎日顔をあわせる状況)になったことをキッカケに、ことごとくわたしの居心地の良い場所に土足で踏み込まれ、他人の幸せが気に入らないとばかりにややこしく絡まれ、疲れ果てました。
大人なんだからと耐え
子供の親なんだからと耐え
周りに心配かけたくないからと耐えて
何も言わなくても、見ている人にはちゃんとわかるはずと思って過ごした1年間。
そしてそれは
私から見れば幼稚なほどあからさまなMの行動も、見えない人には何も見えていないことを知った1年間でもありました。
https://www.decoboco.me/entry/shinraikankei-mamatomo
人間関係の断捨離をして、自由になってみたら「私が自分が常識とずれているのかもしれない」と必死になって合わせてきたものが、世の中の常識なんかじゃなかったと知った。
どちらが正しいわけでも間違っているわけでもなく、私がみている心の世界と、あの人たちがみている見えるものだけを見る世界は違うんだな。
同じ世界に生きてても、同じ世界が観えてるわけじゃない。
さり気なく見えないところでされた心の気遣いは、外側の世界しか見ていない人達からは気遣いとすら認識されていない。
その人達にとっては、何も起こらなかったのと同じこと、、、ということだったのです。
だから、、、
私が感じる「気が利く人」と
あの人の言う「気が利く人」は
噛み合わなかったのかも知れないな。
外側の言動を見ている人の世界
悪気があるわけじゃないにしても、見えない物に価値がないと思ってるから、気遣いは行動や物で示さなきゃ意味がないと思ってる。
たとえば、、、
目に見える行動(プレゼントや物を渡す)だったり、言葉に出して言うことに注目している。
行動や言葉として、目に見える気遣いを見ている人(している人)は、お互いあの人は気が利くねと認識しあっているようです。
(注:あくまでわたしの周りの人の話です。)
おたがいに、相手からから気遣いできる人として認識されることを前提としているのです。
例えばこんな感じ、、、
ママ友とのお茶会のお誘いをした時『その日は下の子の用事があって参加できないので、みなさんで楽しんでね。』『お誘いありがとう。少し風邪気味なので家でおとなしくしているね。』と返事がくることがあります。
私とは別の世界を見ているママ友さんはこんな感じ、、、
☝︎断りがあったら別の日を提案してあげます!
☝︎それでも都合が合わなければ、どの日が空いてるかきいて合わせてあげます!
☝︎最近体調不良でよく不参加になる友達には、メールで体調を気遣ったりお見舞いを届けてあげます!
☝︎ランチに来れない友達がいるのはかわいそうだから、みんなの予定が合う日に調整してあげます!
と、、、こんな感じ。
ある人達にとっては、とても気遣いのできる人に見えるそうです😱😱😱
わたしには、地獄にしか見えへんけどな??
自分の目的のために気遣いをしている人達は、気遣いとは気が利く自分 を周りに見せるための道具と思っているのかも、、、?
内側の形ないものをみる私の世界
私の見ている世界では、言葉よりもその内側にあるもののほうが重要で、、、
さっきの例のように、日程の提案に2度目のお断り(都合が合わない)と返信があったならそれはやんわりとした“行きたくない”という拒絶の意思表示かもしれないな、、、と私は思う。
そんな時は、相手の断りのハードルが低くなるようにと気をつけます。
そのかわり、おしゃべりしたくなったり、落ち着いたらいつでも連絡ちょうだいね。と伝えて扉を少し開けたままあっさりと断りを受け取ることが、相手への気遣いだと思うからです。
私自身ひとりの時間が好きで、週に何度も集まっておしゃべりするのは負担だからです。
大人数で集まると誰かが人の噂話を始めたり、価値観の合わない人の愚痴を延々と聞くことになるのがしんどいのです。
「気遣いは見せる形にして示すもの」と考えている人達とは、まったく別の世界をみている私には、あの人達のみせる気遣いは心の込もっていない自己満足の迷惑にしか感じられない!ということです。
耳触りのいい言葉だけで
気持ちが込もってない
相手の状況や気持ちを察せず
自分の都合でお節介をやく
相手の困っている感情や
言葉に出さない感情はみようとしない
結局は自分が気の利く良い人に見られたいという自己満足にしか感じないのです。
どんなにやんわりと伝えようとしても、伝わらない、、、、気がついてくれない、、、、。
私にとっては、まさに逃げることのできないアリ地獄というわけです。
結論
気が利くには、
自分の評価を上げるための気遣いと
相手への思いやりからくる気遣いの
ふたつのタイプがある。
自分のための気遣いは、人から見えるように言動で表すもの。
相手のための気遣いは、見えないところでさり気なくするもの。
それは相手への『気を遣わせないための配慮』である。
どちらのタイプの気遣いを重視するかは人それぞれで、人によって見えている世界は違う。
本当は、どちらが正しいわけでも
間違ってるわけでもない。
ただ違うという事実があるだけ。
隣にいても、こんなに違う世界を見ている私たちだから、お互いに自分と違う世界で生きようとすると苦しくなる。
だから、自分の生きたい世界を選べば良いんだな、、、。
それが自分らしく生きること。
それが幸せにつながっていくこと。
KAKA