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あの人の『気遣い』と、わたしの『気遣い』は別のもの。見えている世界が違う

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気遣いのできる人ってどんな人?

気遣いができる人って素敵ですよね。

いま、頭の中にどんな人が思い浮かびましたか?

 

一言に気遣いできる人といっても、

そもそもそれぞれが考える気遣いが全く違うことよくありますよね。

 

見せない気遣いのできる人

わたしの場合、

あの人はすごく気遣いが細やかだなぁ、、、とか、気が利くひとだなぁ、、、と思う人は、

さりげなく、周りが気づかないところで気遣いできる人です。

見えないところで起こっている心の気遣いとも言えます。

 

でも、わたしから見た素敵な気遣いのできている人は、

ある人にとっては、気の利かない、はっきりしない、ボーッとした人に見えているようです。

なぜ???

さりげない心の気遣いは、気付くことのできる人にしか気付けないから。

ある人から見れば気付かない=気遣いとすら認識されていないということです。

 

 

自分のために気遣いを演出する人

心の気遣いに気付かない人たちはどこを見ているのでしょうか?

気遣いを、気が利く自分 を周りに見せるためのものとして使っているのではないでしょうか。

 

目に見えるもの、目に見える行動(プレゼントや物を渡す)だったり、言葉に出して言うことに注目して、周りから気遣いできる人として認識されることを前提としているのです。

 

行動や言葉として目に見える気遣いを見ている人(している人)は、お互いあの人は気が利くねと認識しあっています。(注:あくまでわたしの周りの人の話です。)

 

そして、見せる気遣いは、

わたしにとっては、心の込もっていない自己満足のハタ迷惑にしか見えないということです。

  • 耳触りのいい言葉だけで気持ちが込もってない
  • 相手の状況や気持ちを推察せず、自分の都合でお節介をやく
  • 相手の困っている感情や、相手が気遣いして言葉に出さないことが見えていない

結局は自分が気の利く良い人に見られたいという自己満足しか感じないのです。

 

 

 

他人の常識に振り回されない

じつは最近まで、それぞれ人が思い描いている気遣いのできる人、気が効く人は全然違うということに気がついていませんでした。

 

正確にいえば、身近な人が言う

 “あの人は気が効くね”  

に全く共感できないわたしは、

自分の感覚は世の中の常識からズレているのかもしれないな、、、?とさえ思っていたんです。

 

 

それはやんわりとした断りかも

ひとつわかりやすい例を挙げてみます

例えば、誰かをお茶に誘ったとき、

『その日は下の子の用事があって、参加できないのでみなさんで楽しんでね。』

『お誘いありがとう。少し風邪気味なので家でおとなしくしているね。』とお断りの申し出があったとしたらどうしますか?

もちろんケースバイケースですが、

私の場合は、滅多に集まらないメンバーの集まりなら1度目は日程の変更を提案することもありますが、よく集まるメンバーの時や、日程の提案に2度目のお断り(都合が合わない)と返信があったならそれはやんわりとした“行きたくない”という拒絶の意思表示と推察します。

 

私自身ひとりの時間が好きで、週に何度も集まっておしゃべりするのは負担だからです。

 

大人数で集まると誰かが人の噂話を始めたり、価値観の合わない人の愚痴を延々と聞くことになるのがしんどいのです。

 

だから、自分から誘う時にも断りのハードルが低くなるようにと気をつけます。

そのかわり、おしゃべりしたくなったり、落ち着いたらいつでも連絡ちょうだいね。と伝えておきます。

そうして、扉を少し開けたままあっさりと断りを受け取ることが、相手への気遣いだと思うからです。

 

見えないものには気付かない人達

わたしとは違う気遣いをする人達は、気の使い方が全く逆です。(実話です)

  • 断りがあったら別の日を提案してあげます
  • それでも都合が合わなければ、どの日が空いてるかきいて、合わせてあげます
  • 最近体調不良でよく不参加になる友達には、メールで体調を気遣ったりお見舞いを届けたりします
  • ランチに来れない友達がいるのはかわいそうだから、みんなの予定が合う日に調整してあげます

ある人達にとっては、とても気遣いのできる人に見えるそうです。

 

私のようなタイプの人から見れば、こちらの気持ちを無視したありがた迷惑でしかありません。

どんなにやんわりと伝えようとしても、伝わらない、気がついてくれない、まさに逃げることのできないアリ地獄というわけです。

ただ、悪気なく親切心でやってくれている(と思っていた、、、)から拒否できないのです。

 

今ならはっきり見えるし、はっきり言えますが、その頃のわたしには無理だったのは悪気はないのだと相手を理解しようとしていたから。

以前の私のようなタイプは、一言で言えば

お人好しということですね。

 

 

 

正解も不正解もない。見えている世界が違うだけ。

昨年5月から2019年の5月まで、

この1年間は人間関係で苦労しました。

 

今までの20年ほど細々とお付き合いのあった友人Mさん。

物理的に近くなった(毎日顔をあわせる状況)になったことをキッカケに、ことごとくわたしの居心地の良い場所に土足で踏み込まれ、他人の幸せが気に入らないとばかりにややこしく絡まれ、疲れ果てていました。

 

大人なんだからと耐えて、、、

子供の親なんだからと耐えて、、、

周りの人間関係に影響を与えたくないからと耐えて、、、

心配かけたくないからと耐えて、、、。

 

何も言わなくても、見ている人にはちゃんとわかるはずと思って過ごした1年間。

私から見れば幼稚なほどあからさまなMの行動も、見えない人には何も見えていないことを知った1年間。

 

そしてこの4月に、全て吹っ切る決断をしました。

関わる全ての人間関係を整理するつもりで。

ほんとうに必要な、大切なものだけを選び取っていく決断を。

優柔不断で、自分を過小評価する癖のあったわたしには大きな決断でした。

 

離れてみて、自分を取り戻したら、

私に自信を無くさせていたものは、周りにいた人と環境だったと気づくことができました。

私が、自分が常識とずれているのかもしれないと必死になって合わせてきたものが、世の中の常識なんかじゃなかったってこともわかりました。

 

私がみている心の世界と、あの人たちがみている見えるものだけを見る世界は違うと言うこと。

どちらが正しいわけでも間違っているわけでもないこと。

ただ違う世界が見えているということ。

黙って正しいことをしていても、

見えない人には何も見えないのだと言うことに。

 

 

 

本当は心の眼が全て知っていた

人間関係の断捨離を決意して、それでもなお、Mさんのしたことを人に言うことに抵抗があった私。

その中で、これからも付き合っていきたいから勇気を出して話そうと思った数人の人だけにちゃんと話しをしました。

 

なんとなく信頼できると感じていた人は、同じ感覚を持っていたし、やっぱり信頼できる人でした。

初めから心の眼がちゃんと見ていたのだとだと納得しました。

分かり合えない人たちと、無理にわかり合おうとしなくていい。

正しいとか、正しくないとジャッジする必要もない。

物事は、見る角度によって全く違う。

同じことも、見る人によって全く違うものが見えている。

言い訳をする必要も、

わかってもらおうとする必要もない。

 

なんだか違和感を感じてしまう、疲れる、、、と感じる人とは、どんなに話しても同じものは見えないしお互いの言っていることに共感はできないのだとわかりました。

私は「関係のない誰かへ悪意や妬みや攻撃性、人格の裏表」を持っている人をはじめから感覚で見分けていたのに、確証のない感覚で決めつけてはいけないとどこかで思っていたようです。

感覚でわかることに理由なんていらない。

自分の心の眼を信じていいのだと確信が持てるようになりました。

 

全てがはっきりと見えるようになったことで、そこは、自分には関わる必要のない世界だということを迷いなく決断することができたのです。

今は毎日穏やかな気持ちでハッピーに過ごしています。

KAKA

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